Mimaのゆるっと趣味ルーム

観た映画や聴いた音楽についてつらつらと思ったことを書くブログ。普段はゆるっと、ごく稀に大真面目に。

映画『バーニング・ムーン』ーイッテンバッハが真面目に怒りと血をぶちまける?

初めまして、Mimaです。

真っ赤な文字ででっかくご挨拶したのは、本記事で取り上げる映画がスプラッターだから、というだけです…。このブログは、私の大好きな音楽や映画について、ゆる~く語るものです。知識が豊富なわけでもなく、文章がうまいわけでもないけれど、ひたすら「愛だけはあるぞ!!」と熱意のみを原動力に書いております。新参者ゆえ至らぬところあるとは思いますが、「熱意空回りしてるな…(笑)」みたいな感じで読んでいただけたら嬉しいです。また、感想や解釈は、あくまで私個人の私見なので、「一つの考え方に過ぎない」くらいに構えて読んでください。

 

初回に取り上げるのは、1992年ドイツ製作のホラー、スプラッター映画『バーニング・ムーン』です。

 

作品について

80年代後半、『ネクロマンティック』(未鑑賞です)を筆頭に起こったジャーマン・スプラッター作品の一派、としてコアなファンの多い作品。オラフ・イッテンバッハ監督の『バーニング・ムーン』もその流れに沿って、「ビデオ撮り、特殊効果によるリアルな残酷描写」の基本姿勢で製作された映画。ドイツ本国、および西洋圏では、完全版を入手するのは非常に困難らしい。日本では今年の3月3日に、<HDニューマスター版>として完全版のDVDとBlu-rayが発売された。

 

簡単なあらすじ

不良集団の一員で、薬物常習者のピーター(オラフ・イッテンバッハ)は、彼の両親が出かける晩に、妹のアネット(バーバラ・ヴォダージェック)の面倒をみるよう言いつけられる。ピーターは不本意ながら、妹に二つの残酷な「ベッドタイム・ストーリー」を語りだす。

 

ストーリーと考察(以下ネタバレあり)

  • 第一話「ジュリアの恋」

物語は、クリフ・パーカーという連続殺人犯が精神病院から脱走するところから始まる。話はいきなり飛んで、ジュリアという女性が、最近であったという男性とデートするのだという。レストランで楽しい会話を相手と楽しむジュリア。そして、彼の車にのり、帰宅する…はずだったのだが、流れていたラジオから、どうやらデートしていた男は最近精神病院から脱走した、あのクリフ・パーカーらしいということが、車や犯人の背格好の説明でわかってしまう。ジュリアはクリフがたばこを買いに行っているすきに、車から逃げ、急いで帰宅する。車に戻ってきたクリフは、ジュリアがいないこととラジオのニュースから、偽っていた自分の身元がばれたのを理解する。と同時に、ジュリアが忘れていった財布を発見する。そこにはしっかり身分証が入っていた。

クリフはジュリアより一足先に車でジュリアの家に到着し、ジュリアの家族を惨殺。後から到着したジュリアに「やり直そう」と血まみれで(ツッコミはNGです)迫るが、恐怖と、家族を殺された怒りから「異常者!!」と返してしまう。そしてジュリアの命も奪い去られてしまう。

というストーリーだけみると、典型的な「ソシオパスなストーカーによるスプラッター」に思えるが、脚本も兼任するイッテンバッハ監督は、実は冒頭のシーンからビルドアップを始めている。まずクリフが脱走する直前。担当の女性医師はクリフの精神的回復を信じているが、病院の院長が「あいつは治る見込みがない」と全く相手にしない。脱走の際、この二人は殺されてしまう。

もう一つ、クリフのフラッシュバックとして挿入されるシーン(全く同じカットが二回挿入される親切ぶり)、それは「クリフの祖父が目の前でクリフの母親を惨殺する」という少年期のトラウマである。クリフはこの話の最後、ジュリアに関係の修復を迫るシーンで、彼女にそのトラウマをぶちまけている。学校にも友人はおらず、心から話ができるのは母親だったというクリフ。しかしその母親は殺され、「次はお前だ!」と脅される。

振り返ると、ジュリアがクリフの正体に気付くまで、クリフはいたって普通の、紳士的な好青年だ。少し空回り気味だが「会話ができる」人に出会えてうれしかったのかもしれない。それまでは、唯一心を許せる人を奪われ、社会から「異常者」のレッテルを貼られ、病院の院長までにも見放される、そんな人生だったからだ。しかし、状況として無理もないが、ジュリアも彼に同じレッテルを貼ってしまったのだ。

私はもちろん、いかなる理由があれど殺人が許される行為だとは思わない。だが、これはあくまで「スプラッター映画」であり、ほぼイッテンバッハのセルフプロダクションに近い低予算作品であることも鑑みれば、「映画的効果」としての残酷描写の意味するところは、「抑圧、迫害への怒りと、そこからの解放」のメタファーととらえることができる。伏線の張り方は弱いが、クリフを「機械的な殺戮モンスター」にとどめず、彼の苦悩に満ちた生い立ちを描くことで、映画という「エンタテイメント」の枠内で、社会が抱える「他者化」の問題に切り込んだと言えるだろう。

  • 第二話「純潔」

物語はここからさらに複雑化していく。第一話を総括すれば「スラッシャー映画的演出で、社会から除け者にされた青年の怒りを描いた話」と言えるだろう。第二話でも、このテーマは貫かれている。そしてさらに深く切り込んでいく(自然とダブルミーニングになってしまうが)。第二話は1950年代のドイツの田舎町が舞台だ。非常に小さく、住民皆が顔見知りのようで、まさに「村社会」だ。この村で住民から一番尊敬されているのはラルフ神父である。

まず、設定について、これは今でも西洋圏で少なからず残る、非常に小さく都市部から離れている村などの風潮なのだが、カトリックの神父、つまり聖職者が、その村で一番尊敬され、一番の権力者であるという場所の設定はおさえておくべきポイントだ。この村では、女性がレイプされ惨殺されるという事件が相次いでいて、結論から言えばこの神父が犯人なのだが、村人は誰もラルフ神父を疑おうとしない。自らが殺した女性の葬儀もラルフ神父が執り行うのだが、村人は、一人を除いてみな信心深く、「聖職者が非人道的行為をする」ということは夢にもおもわない価値観を共有している。

先ほど「一人を除いて」と書いたが、この「一人」が、祈りの場で一人だけぼんやりとしているユストスという青年だ。彼は村人の中で完全に浮いた存在であり、村人たちが「当たり前」に共有する価値観を持っていないため、確実な証拠もなく「レイプの犯人はユストスだ」と村人たちに決めつけられてしまう。誰に対しても優しく接する「神父」としてのラルフは、そんな彼をかばう。

そんなラルフ神父の裏の顔、それは「悪魔崇拝者」である。実はここにも伏線があって(非常に弱いのだが)、ラルフが少年のころ、同じく神父である父から「お前も神父になるのだ」と言われ、父とともに祈りをささげる。しかしこのラルフ少年、祈る前に一瞬ためらいの表情を見せる。その後ラルフ少年の前に現れた怪物、そして渡される書物。この書物が後に悪魔崇拝の儀式に使われることから考えると、現れたのはサタンだろう。そう、ラルフ自身が、世襲的に受け継がれる信仰や、それを盲目的に「善」と捉える風潮に疑問をもっていて、そんなときにサタンから悪魔崇拝の道へと誘われたのだ。つまりラルフ少年はユストス少年とイコールなのだ。

成長し神父となったラルフは、深夜悪魔崇拝の儀式を行っていたが、自らの「社会的立場」と相反する内面の葛藤、またユストスに幼き頃の自分を見出したのだろうか、儀式ののち拳銃で自らの命を絶つ。キリスト教において自殺はタブーであるため(あくまで一般的な考えである)、おそらくラルフ神父は地獄に落ちただろう。

さて、ラルフ神父が亡くなっているのを村人が発見するわけだが、まさか自殺だとは思わない。そして、「神父を殺したのはユストスだ」となるのである。そして、金で依頼された村人の一人が、「神の名の下」ユストスを殺す。

しかし、ここでユストスにささやきかける声。彼は超自然的な力を手にし、自分を殺した村人を地獄へ落とす(ここで文字通り本作最大の「地獄絵図」が長時間繰り広げられ、それはまさに、「地獄」の映像なのだ)。

より詳しく述べると、壁に書かれる、ユストスの血文字による「666」。壁にかかっていた十字架は自然に落ち、発火する(燃える十字架はキリスト教において非常に不吉なサインとされる)。そこからの「地獄絵図」シークエンス。それが終わるとユストスは、殺された時の状態に戻っている。ここから考えられるのは、ユストスにささやきかけたのは「神」であり、ユストスの魂を用いて、「自ら(神)の名を悪用する者」を地獄に落とした、ということだ。

ストーリー展開がぎこちないのと、キリスト教のモチーフや、キリスト教保守層による村社会の風潮等、日本人には馴染みの薄いメタファーが多用されるため、地獄を描いた残酷描写の容赦のなさばかりが語られがちだが、これは第一話のテーマを、オカルトホラーの要素でよりわかりやすく描いた物語である。「当たり前」「普通」「常識」といったものがいかに簡単に作られ、それらがいかに脆いか。その穴だらけの「常識」の中で、少数派が他者化され、迫害されていくという社会の構図。これは、キリスト教や小さな社会に限った話ではなく、いたるところでおこっていることだ。そういった社会構図への疑問を根底にしている、至極真面目なホラーなのだ。

  • 語り部ピーターと、この映画全体の解釈について

先述の二つの物語を語る青年ピーターは、悪友とつるんでおり、二人でドラッグを打つ仲である。しかし、ピーターの幼少期のころが一瞬描かれている。後に悪友となる友人と納屋で遊んでいると、ピーターの父が、「あいつはロクなやつじゃない」と無理やり引き離すシーンだ。また、夜話を語る当日、両親が出かける前、妹の面倒を見ることに難色をしめしたピーターに対し、父親が暴力的行為で言いくるめるシーンがある。この二つから、ピーター青年も、幼少期から親の抑圧を受け、地域では不良としてレッテルを貼られる、「浮いたやつ」ということが言える。つまりピーターの語る二つの物語は、ピーター自身の投影ともいえる。これを踏まえると、両親のいない深夜に、ピーターと妹のアネットが迎える結末は、ヴィジュアル的印象はこの前に描かれるスプラッター描写たちに劣るが、最も悲しく、怒りに満ちたシーンなのかもしれない。なぜって、ピーターは、イッテンバッハ監督本人が演じているのだから。

 

終わりに

初回からいきなり長文で無駄に気合いの入ったものになってしまいましたが、普段はもっともっとゆるいブログになる予定です。この映画に関しては、鑑賞された方の感想を見聞きすると、「残酷描写だけは一級品のジャーマン・スプラッターの一つ」とくくられることが多い印象だったため、自分の解釈をいつか「ぶちまけたい」と思っておりました。今後はもっとゆるりと、まったりと、映画・音楽愛を書いていきますのでよろしくお願いします。